横浜能楽連盟
私たちの活動
横浜能楽連盟は、観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流、観世流梅若会、下掛宝生流に属する能楽を趣味とする団体や個人と、能面を打つ方々の団体で構成されています。
昭和二十八(一九五三)年に第一回が開催されて以来、半世紀にわたり横浜能楽連盟が中心になって開催してきた「横浜能」をはじめ、「横浜五流能楽大会」(昭和六十二(一九八七)年~)、「横浜五流交流のつどい」(平成十(一九九八)年~)を、会員の交流と精進のお披露目の場として、それぞれ年一回開催しています。この素人能楽大会は「能楽の親しみやすさ」の発信の場となっています。家族や友人の出演を知って初めて横浜能楽堂を訪れ、それをきっかけに能楽ファンになる市民も少なくありません。
能楽を「趣味」にするのは敷居が高いと思われがちです。「日本の代表的な伝統芸能」と聞けばなおさらですが、当連盟には師範級の方から初心者まで幅広い会員がおり、老若男女それぞれが、謡い、仕舞、お囃子などを自分に合った楽しみ方をされています。また、能楽を通した仲間づくりにも役立っています。
連盟を運営する人たち
- 顧 問
- 藤本 圭祐観世流
- 顧 問
- 馬場 洋一喜多流
役員
- 会 長
- 井上 豊年宝生流
- 副 会 長
- 倉藤 睦子金剛流
- 副 会 長
- 平戸 仁英観世流
- 理 事
- 尾崎 純子観世流
- 理 事
- 畠山 利子観世流
- 理 事
- 鈴木 幸江観世流
- 理 事
- 山添富士子宝生流
- 理 事
- 坂本 盛夫宝生流
- 理 事
- 桑原弥兵衛観世流梅若会
- 理 事
- 道明 辰雄金剛流
- 理 事
- 三村芽久美金剛流
- 理 事
- 大山三恵子金春流
- 理 事
- 桝山 俊二金春流
- 理 事
- 保木 豊忠喜多流
- 理 事
- 長塚 正敏喜多流
- 監 事
- 野口 昌美喜多流
- 監 事
- 坂井 茂德宝生流
運営
- 企画事業担当
- 長塚 正敏喜多流
- 総 務 担 当
- 尾崎 純子観世流
- 普及・広報担当
- 山添富士子宝生流
横浜能楽連盟の歴史
昭和二十三年戦後の混乱期に、観世流の準職分だった中村源兵衛は、「横濱能樂謠曲連盟」を発足させました(幽玄に当時の会報を掲載しております)。ここに、現「横浜能楽連盟」へと続く組織が産声を上げ、初代会長に中村源兵衛が就任しました。同年十二月十二日、横浜市と連盟共催の素謡大会が鶴見の總持寺において開催されました。
翌二十四年には横浜反町公園で日本貿易博覧会が開催され、その施設の一つである芸能館の「こけら落し」に能をと市当局から要望され、演能が実現しました。これが四年後に始まる「横浜能」の先駆け的公演となりました。
横浜市及び横浜市教育委員会との共催で、昭和二十八年十一月に第一回「横浜能」が開催されました。演能は三日間にわたる日数能。観世、宝生、喜多、金春、梅若の五流が勢揃いし、演者は当代一流と目される能楽師を配置したあたり、壮観であったと思われます。その後、現在まで一回も休まず開催されております。
連盟と横浜市共催で進めてきた「横浜能」は、平成三年までは連盟が実質的に運営していましたが、平成四年から横浜市文化行政の一本化に伴い、実質的な運営は市民局文化室市民文化事業課へと移管されました。
昭和四十三年に、それまでの名称「横濱能樂謠曲連盟」を「横浜能楽連盟」に改称しました。この年、連盟は戦後の混乱期の中で横浜の文化復興に大きく貢献したという功績により、「第十七回横浜文化賞」を団体として受賞しました。
連盟主催行事の能舞台は、料亭「おしろ」で始まり、県立音楽堂、青少年センター、関内ホールと仮設の舞台で催してきましたが、本格的な能舞台での演能への願望から、能舞台再建の機運が高まってきました。
昭和五十二年十二月「横浜能楽堂設立委員会」が立ち上げられ、同五十九年には横浜商工会議所会頭上野豊氏を会長とする「横浜能楽堂建設促進会」が発足し、能楽連盟からも五代目会長の新堀豊彦が副会長として参画しました。平成八年六月二十八日に「横浜能楽堂」開館記念式典が挙行され、二十九日および三十日の舞台披きは五流の家元全員が出演するという豪華な顔ぶれで華々しく執り行われました。
ともすれば流派の代表者の集まりのようになっていましたが、真の愛好者の組織体として活動していることをアピールするため、ほぼ三十年近く行われなかった五流の素人衆による謡曲会を復活させることとしました。
連盟は素人の発表のチャンス、いずれは本舞台で謡ったり、舞ったりすることができるという大きな希望を目標に、第二回「横浜能」以来行われていなかった「五流合同横浜謡曲大会」を開催しました。平成八年七月七日には、開館したばかりの横浜能楽堂で第十二回目の謡曲大会が開催され、夢の本舞台に立つことができました。後に「横浜五流能楽大会」と名称は変わりましたが、今も横浜能楽堂において開催されています。さらに、横浜能楽堂が完成してからは、開催時間内に収まらないほど出演希望者が増えましたので、平成十年に新しく発表の場として「横浜五流交流のつどい」を設けました。
平成元年には、改めて連盟規約をつくり組織の整備を行いました。このときの会員数は二百十五人でした。謡曲愛好者の会という感がありましたが、「面の会」、「面友会」など面打ちのグループも参加するようになり、会の活動に厚みが加わりました。
更に広報活動においても、平成二年十月十六日付で連盟の会報「幽玄」を創刊しました。以来、年二回発行し現在に至っております。
設立七十周年の節目となる平成三十年には、四百人を超える会員数となり、ますます積極的な活動を行っています。